鳴り響いた空襲警報
富山市の稲垣よし子さん(89)はその日、10歳の誕生日を迎えた。
1945年8月1日。姉が「誕生日だから」と、歌を歌ってくれた。太平洋戦争末期、日本の戦況は厳しくなる一方で、お祝いをする風潮ではなかったから、うれしかったことをよく覚えている。

稲垣さんが眠りについた午後9時50分ごろ、空襲警報が夜の町中に鳴り響いた。
稲垣さんの家族はこのころ、アメリカ軍機が富山にも近くやって来るのではないかと薄々感じ取っていたという。

前日の7月31日、アメリカ軍は、空襲を予告する3万枚のビラを富山市内にばらまいていた。軍部や警察は、人々の目に触れないようすぐに回収したが、姉が溝に落ちていた1枚を見つけ、自宅に持ち帰ってきたのだ。


父、甚兵衛さんは子どもたちを疎開させることを決め、準備に取り掛かっていた。警報が発令されたのはその矢先。「みんな驚き、飛び起きました」。
だが何事もなく、午後11時近くになると、空襲警報に先立ち発令されていた「警戒警報」も解除された。稲垣さんら家族は「これで大丈夫だ」と安心し、再び床に着いた。
日付が変わった8月2日午前0時15分ごろ、再び「空襲警報」が鳴った。外からは「ドカーン」という大きな音も聞こえた。防空頭巾をかぶって、その辺にあった履き物をつっかけて外へ出ると、甚兵衛さんが飛んできて、稲垣さんと、2歳年下の妹の手を引っ張った。いったんは防空壕へ入ったものの、「危ないから」と自宅から数百メートル離れた神通川の河原へ向かうことになった。
降り注ぐ焼夷弾
防空壕を出ると、通っていた小学校が燃えていた。隊を組んで飛行するアメリカ軍機も見えた。焼夷弾が雨のように降ってきて、稲垣さんの自宅にも火が付いた。周囲は瞬く間に火の海に。地獄絵図だった。


アメリカ側の資料によると、サイパン島を飛び立ったアメリカ軍の180機余りは、硫黄島を通り、富山に入った。このうちB29爆撃機173機が富山を攻撃した。
午前0時36分に最初の投弾を始め、午前2時27分までの111分間続いた。投下された焼夷弾は1万2740発、総計で1465トンに及ぶ。

この空襲で、現在までに確認された死者は2722人、負傷者は7900人。アメリカ軍が攻撃目標とした市街地の99.5%(4.84平方キロメートル)を焼き尽くした。
約10万人が犠牲となった、この年3月10日の東京大空襲を経て、6月中旬以降に拡大した中小都市への空襲の中でも富山市の被害は、死者数や焼失面積といった点で最大規模だった。

富山と同日に行われた空襲の被害状況
都市 |
投下された弾数 (個) |
投下された弾量 (t) |
目標市街地面積 (km²) |
焼失面積 (km²) |
犠牲者 (人) |
---|---|---|---|---|---|
東京都 |
8,090 | 1,593 | 3.63 | 2.90(80.0%) | 約450 |
富山市 | 12,740 | 1,465 | 4.87 | 4.84(99.5%) | 2,722 |
新潟県 |
6,428 | 924 | 5.26 | 3.44(65.5%) | 1,488 |
水戸市 | 17,890 | 1,144 | 6.73 | 4.40(65.0%) | 300超 |
なぜ被害は拡大したのか。
富山市郷土博物館の学芸員、浦畑奈津子さんは、当日の気象状況に着目する。浦畑さんによると、富山市では江戸時代から近代にかけて大火が何度も繰り返されてきた。いずれも市街地の南側で火事が起き、南風が火の手を広げていった。

1945年夏、富山市は雨がほとんど降らずに乾燥し、空襲があった日は南西の風が吹いていた。アメリカ軍の爆撃機は南西方向から市街地に入ってきていた。浦畑さんは「火が燃え広がりやすい条件があったと考えられる。夜中で消化活動もままならなかったのだろう」と話す。
逃げ惑う市民を防空指導者らが「非国民」と呼び、火中に追い返していたとの証言もある。
よかった、生きとった
稲垣さんは川に向かう途中、怖くなってうずくまってしまった。「逃げんといけん。何しとる」という父に引きずられて河原までたどり着いた時、3人のすぐそばに焼夷弾が落ちてきた。
爆風で、3人とも川の中に投げ飛ばされた。人の血やら油やらが顔にまとわりつき、息もできない。見知らぬ大人が、稲垣さんと妹を助けてくれた。
しかし父の姿はどこにもなかった。そこからは妹と2人だけだった。心細さより怖さの方が大きかった。焼夷弾が落ちてくるたびに身をかがめ「よかった。生きとった」。とにかく必死だった。
周りには、けがをして「ぎゃー」とうめき声を上げる人、足が切断され声も出なくなった人、それに苦しさから「早く殺して」と叫ぶ人たちがたくさんいた。ケガをして近くの中学校に運ばれていく人たちも見た。


苦悩
その後、別々に逃げていた母や姉たちと再会できた。甚兵衛さんが、川下で遺体で見つかったのはそれから数日後だ。
「避難の途中に自分がしゃがみ込まなければお父さんは、死なずにすんだのではないか」
そんな思いが長年、稲垣さんを苦しめた。
笑わない子ども時代を過ごした。
「いろいろなことを思い出すとお話しできないの。涙が出てきてしまって」
成人した稲垣さんは、教員の道に進んだ。しかし心に深く刻まれた傷によって、子どもたちに自らの空襲体験を語ることができなかった。
「私の誕生日でもある8月1日は毎年、父の法事があるので、おめでとうと言ってくれる人は誰もいないの」
退職を間近に控えたころ、保護者にふと漏らした一言が、体験を語るきっかけになったという。

保護者たちはこの言葉をしっかり受け止めてくれ、救われる思いがしたという。
「豊かで、もっと楽しく生きられたはずの私の人生を奪ったのが戦争。惨めな生活、悲しみ、苦しみ…。もう戦争はしてほしくない」
稲垣さんは今、語り部として、子どもたちに自らの体験を語っている。
講演を聞いた子どもたちからは手紙が届く。「僕は戦争は絶対にしてはいけないことだと思いました」。稲垣さんは、これからの社会を背負う子どもたちに、小さな希望を見出している。