大本営発表 ねつ造された戦果

太平洋戦争時、旧日本軍の戦況は、新聞やラジオ放送を通じて国民に届けられた。中心を担ったのが大本営発表だ。その数は、3年9カ月で847回に及んだ。

1941年12月の開戦当初、伝えられた情報はほぼ正確だった。しかし翌年6月のミッドウェー海戦で日本軍が大敗して以降、事実は次第にゆが められ、ありもしない戦果が捏造ねつぞうされるようになった。

でたらめは、なぜ繰り返されたのか。背景には、現実を受け止めない軍部と、軍部の圧力に屈したマスコミの姿があった。

記者解説

日本軍がミッドウェーで大敗して以降、大本営発表は徐々に正確さを失い、日本軍の損害は矮小化して伝えられた。90秒の動画で解説する。

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大本営発表とは

大本営は、戦争指導の最高権力機関とされ、戦時中に必要に応じて設置された天皇直属の組織だった。

大本営が、日本軍の戦況に関する情報を内外に示したのが大本営発表だ。

1941年12月8日朝、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と発表する大本営陸軍報道部長の大平秀雄大佐=陸軍省記者クラブ 1941年12月8日、東京・銀座4丁目の運動具店前で、米英との開戦を報じるラジオ放送を聴く市民

左:1941年12月8日朝、「帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」と発表する大本営陸軍報道部長の大平秀雄大佐=陸軍省記者クラブ

右:1941年12月8日、東京・銀座4丁目の運動具店前で、米英との開戦を報じるラジオ放送を聴く市民

1937年に始まった日中戦争で発表されたのが最初とされる。大本営の中に陸軍と海軍がそれぞれ設けた報道部(後に統合)が実務を担った。

大本営の組織

「わが軍民の士気を鼓舞し敵の戦意を失墜」させることを任務とした。(「現代史資料37 陸軍宣伝機関業務報告」1967年、みすず書房より)

発表までの流れ(陸軍の場合)

  • 1.前線部隊からの報告
  • 2.公開範囲を決定
  • 3.発表文の原案作成
  • 4.発表文の承認・添削
  • 5.記者クラブで発表
1943年3月5日、昭和天皇(中央)が臨席し宮殿・東一の間で開かれた大本営会議。

大本営は、1894年の日清戦争で初めて設けられた。太平洋戦争時の大本営は、1937年の日中戦争をきっかけに宮中に設けられたもので、1945年の敗戦まで続いた。陸軍と海軍が緊密に一体化し、作戦を実行することを目指したが、両軍は制度や戦略理念などが異なりしばしば対立。太平洋戦争時はそれぞれが別々の建物で作戦の指揮をとるなど、有名無実化していた。一方、軍を指揮する統帥権は天皇が持ち、内閣や議会からは独立しており、構成員は参謀総長や軍令部総長以下、軍人のみとされた。代わりに大本営政府連絡会議などがあったが、統帥や作戦などは議題にされず、事務的なことが話し合われた。戦局が極度に悪化した1945年3月、首相らは大本営会議に出席するようになった。

日米開戦(真珠湾攻撃)

大本営陸海軍部発表
(昭和16年12月8日午前6時)
「帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」

ミッドウェー海戦

大本営発表
(昭和17年6月10日午後3時30分)
「米国艦隊を捕捉猛攻を加え敵海上及び航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり
真相日本が空母4隻を失うなど大敗

ガダルカナル島撤退

大本営発表
(昭和18年2月9日午後7時)
「優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘克く敵戦力を撃砕しつつありしがその目的を達成せるにより二月上旬同島を徹し他に転進せしめられたり
真相撤退を「転進」と言い換え

アッツ島の戦い

大本営発表
(昭和18年5月30日午後5時)
「五月二十九日夜主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く途絶全員玉砕せるものと認む」
真相守備隊の全滅を「玉砕」と言い換え

マリアナ沖海戦

大本営発表
(昭和19年6月23日午後3時30分)
「敵機動部隊を捕捉、先制攻撃を行い爾後戦闘は翌二十日に及びその間敵航空母艦五隻、戦艦一隻以上を撃沈破、敵機一〇〇機以上を撃墜せるも決定的打撃を与うるに至らず」
真相日本は2日間の戦闘で、空母3隻、航空機約400機を失い壊滅的な敗北

台湾沖航空戦

大本営発表
(昭和19年10月16日午後3時)
「わが部隊は潰走中の敵機動部隊を引き続き追撃中にして現在までに判明せる戦果(既発表の分を含む)左の如し」
真相発表ではアメリカ空母11隻などを撃沈したとするが、実際の被害は軽微

原爆投下

大本営発表
(昭和20年8月7日午後3時30分)
「昨八月六日広島市は敵B29小数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり」
真相「原爆」という言葉を避けたが、アメリカのトルーマン大統領が投下した爆弾は原爆であることを既に発表していた

※発表回数は辻田真佐憲氏の集計に基づく。

真珠湾攻撃

真珠湾攻撃を成功させた1941年12月、大本営発表の回数は90回を数え、太平洋戦争の期間を通し全体の1割を占めた。

わが潜水艦はホノルル沖において航空母艦一隻を撃沈せるものの如きもまだ確実ならず

(大本営海軍部発表昭和16年12月8日午後8時45分)

12月8日午後8時45分の続報では、アメリカの空母1隻を撃沈させたとみられるものの「確実ならず」と慎重な表現を選んだ。これについて12月18日午後3時の発表は空母は撃沈していなかったと"訂正"、この時点では正確性へのこだわりが随所に見られた。

知らぬは国民

ミッドウェー海戦

太平洋戦争が始まって以来、攻勢を続けてきた日本が、1942年6月のミッドウェー海戦でアメリカに敗れて戦局は一変した。これを境に、大本営発表に変化が現れた。

同盟写真特報
ミッドウェー海戦を伝える「同盟写真特報」第1791号(同盟通信は共同通信の前身)。「豪壮雄渾帝国海軍東太平洋に大作戦、洋心を強襲しつつアリューシャン列島を攻略」の見出しを付け、空母2隻を撃沈するなど「大戦果をうちたてた」などと伝えた。

ミッドウェーに関する発表が出たのは、敗北から5日後の6月10日だった。

敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈なる強襲を敢行すると共に、同方面に増援中の米国艦隊を捕捉猛攻を加え敵海上及び航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり

(大本営発表昭和17年6月10日午後3時30分)

発表文は、"戦果"としてアメリカ空母2隻を撃沈し、重要軍事施設を爆破したと記している。一方、日本側の損害として空母1隻を喪失、1隻が大破したと伝えた。

実際はどうだったのか。日本は主力空母4隻が沈没、航空機300機以上を失った。死者はパイロットなどを含め3,000人を超えた。開戦以来、初めて大敗北を喫した。

沈没直前の空母「飛龍」
沈没直前の空母「飛龍」

元海軍中佐で大本営報道部員を務めた富永謙吾によると、「空母2隻喪失、1隻大破、1隻小破」などの案が出たが、作戦部の強硬な反対にあってつぶれ、練りに練った結果、上記の戦果発表となった。(同氏「大本営発表の真相史」1970年、自由国民社)

国民に伝えられたのは"つくられた勝利"だった。

「知らせぬは当局者、知らぬは国民のみだ」。大本営で戦争指導にあたった種村佐孝はミッドウェーの記事が出た1942年6月11日の日誌にこう記していた。(「大本営機密日誌」1995年、芙蓉書房出版より)

ガダルカナル島の戦い

南太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島で、日本軍は1942年、連合国側のアメリカとオーストラリアの連携を絶つため、同島で飛行場建設を開始。アメリカ軍は同8月に上陸し飛行場を奪取した。日本側は奪回を目指して新たな部隊を逐次上陸させたが、いずれも失敗に終わった。

ガダルカナル島の戦い
ガダルカナル島「転進」を伝える1943年2月10日付朝日新聞

戦闘や飢餓、病気による日本側の死者は約2万2000人に上った。

ガダルカナル島に作戦中の部隊は昨年八月以降引き続き上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘克く敵戦力を撃砕しつつありしがその目的を達成せるにより二月上旬同島を徹し他に転進せしめられたり

(大本営発表昭和18年2月9日午後7時)

注目すべきは、島からの日本軍撤退を撤収や退却などの表現を使わず、「転進」と言い換えたことだ。

ガダルカナル島の戦い
日本軍は、西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐり、1942年8月から翌年3月にかけ、連合国軍と戦った。兵力、兵站両面で劣勢が続き、11月の第38師団1万人の増援が失敗に終わったのを最後に、同島から「転進」。2万人を越える犠牲者を出した上、その内の3分の2は餓死と戦病死と推定される悲惨な結果となった=1942年撮影

大本営報道部長を務めた松村秀逸は著書で「旧日本軍が退却を極度に戒めて『退く』という言葉すら忌み嫌ったその頃の空気をよく表現したもの」(「大本営発表」1952年、日本週報社)と述べている。

アッツ島の戦い

日本軍は1942年6月、ミッドウェー海戦と並行してアリューシャン列島のキスカ島とアッツ島を占領した。日本本土を空襲するためのアメリカ軍の基地設置を妨げるためだった。

およそ1年後の1943年5月、1万人を超えるアメリカ軍の攻撃部隊がアッツ島に上陸し、約2,600人の日本守備隊と壮絶な戦闘を繰り広げた。

アッツ島海戦を伝える1943年6月30日付の同盟写真特報(第1808号)
アッツ島海戦を伝える1943年6月30日付の同盟写真特報(第1808号)。写真は「砲を分解してアッツ島を征く陸の精鋭、陸軍省提供」と説明されている。

守備隊は次第に追い込まれ、5月29日の電報を最後に交信が途絶えた。

アリューシャン列島アッツ島の激戦で死亡した日本軍兵士の遺体=1943年9月(ACME)
アリューシャン列島アッツ島の激戦で死亡した日本軍兵士の遺体=1943年9月(ACME)

「アッツ島」守備部隊は五月十二日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ5月29日夜主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決意し全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり、爾後通信全く途絶全員玉砕せるものと認む

(大本営発表昭和18年5月30日午後5時)

大本営発表は守備隊の全滅を「玉砕」と表現。新聞は、守備隊の奮闘ぶりを「戦時美談」として伝えた。国民の戦意高揚に利用し、無謀な戦争で多くの命が奪われた事実は覆い隠された。

アッツ島海戦を伝える1943年5月31日付朝日新聞
アッツ島海戦を伝える1943年5月31日付朝日新聞。「壮絶・夜襲を敢行玉砕」の見出しが立つ。

台湾沖航空戦

誤った戦果報告がもたらした悲劇が、1944年10月の台湾沖航空戦だ。

アメリカ軍は1944年10月、フィリピン侵攻の地ならしとして沖縄(十・十空襲)や台湾に激しい空襲を加えた。これに日本側が迎撃した。

朝日新聞
台湾沖航空戦について報じる1944年10月17日付の朝日新聞

「わが部隊は十月十二日以降連日連夜台湾及び『ルソン』東方海面の敵機動部隊を猛攻しその過半の兵力を壊滅してこれを潰走せしめたり」

(大本営発表昭和19年10月19日午後6時)

発表では、空母11隻、戦艦2隻などを撃沈させ、航空機112機を撃墜したと報告した。新聞には「敵機動部隊に壊滅的打撃」などの見出しが踊った。久々の大戦果に日本中が歓喜した。10月21日には天皇の勅語が出た。

しかしこれらは戦果判定に不慣れな隊員による報告を鵜呑みにしたもので、アメリカ側の損害は軽微だった。大本営海軍部は成果報告が正しくないことを把握していたにもかかわらず、隠蔽した上で、先の発表を行っていた。

フィリピンのレイテ島沖で、米軍の中型爆撃機B25ミッチェルの攻撃を受けて炎上する日本軍の護衛駆逐艦=1944年11月(ACME)
フィリピンのレイテ島沖で、米軍の中型爆撃機B25ミッチェルの攻撃を受けて炎上する日本軍の護衛駆逐艦=1944年11月(ACME)

さらに問題なのは、戦果が誤っていることを陸軍や海軍上層部に伝えていなかった点だ。アメリカ艦隊が大打撃を受けたと判断した陸軍は、フィリピン・レイテ島での戦いに臨み、敗北した。

誤った発表が、国民だけでなく軍の作戦計画などの判断にまで悪影響を及ぼしていた一例だ。

偽りの背景

近現代史に詳しい辻田真佐憲氏の集計によると、太平洋戦争での日本軍の喪失は、大本営発表に基づくと空母4隻、戦艦が3隻。アメリカを中心とするそれは、空母84隻、戦艦43隻となっている。

大本営発表だけを見ると、日本側の圧倒的な勝利だ。

実際はどうだったのか。

日米損害の比較
辻田真佐憲氏「大本営発表」(2016年、幻冬舎)より作成

日本は空母19隻、戦艦8隻を失っており、公式発表からは空母15隻、戦艦5隻、合わせて20隻分の喪失が隠されたことになる。

一方、連合国側の喪失は、空母11隻、戦艦4隻にとどまった。空母73隻、戦艦39隻の計112隻分が、戦果として誇張して発表されていた。

軽視された情報

損害の隠蔽や戦果の水増しはなぜ起きたのか。

辻田氏は、物事の決定プロセスがあいまいだったと指摘される旧日本軍の組織構造に着目する。

「政治や軍事など全般を掌握する責任者が不在だった。さまざまな利害関係者の意見を調整した結果、ミッドウェー海戦をはじめとした発表文書ができた」と指摘する。

なるべく情報を出したい大本営報道部に対し、失敗を公にしたくない作戦部が対立。結果として強い立場の作戦部の意見が通り、損害を隠す方向に流れたとみる。

「当初は、情報を多少誤魔化してもいずれ挽回できると考えていたのだろう。ところが戦局が急速に悪化していく中で、ウソをつく前例が繰り返され、結果的に現実と発表の内容がどんどん乖離してしまった」

一方、パイロットには、敵艦船の撃沈など戦果の判定に関し、情報収集力や分析力が求められる。しかし戦況悪化でベテランがいなくなると、不慣れなパイロットによる不確かな情報に頼らざるを得ない状況に陥った。

辻田氏は「戦争末期『作戦成功』を信じたい軍部の希望的観測も合わさり、情報は精査されることなく戦果が水増しされた」とも話す。

軍とメディアの癒着

軍部と報道機関の一体化も要因だ。1931年の満州事変以降、新聞社はスクープを狙って、従軍記者を戦場に派遣。現地で軍部からさまざまな便宜を受けるなどして、両者はやがて親密な関係になっていた。「軍側には『何を発表してもメディアは批判しない』『自分たちの言っていることを垂れ流してくれる』との確信があった」(辻田氏)

また国は、検閲や新聞発行に欠かせない用紙供給などを通じて新聞社を統制。軍部にとって都合の悪い記事は書けない仕組みが出来上がっていた。

大本営発表は「朝刊」「夕刊」などとも呼ばれ、見出しの大きさなどにまで口を出し「大編集長」や「整理部長」などのあだ名をつけられた大本営の報道部員もいたとの逸話もある。

辻田氏は「軍からの情報を足し合わせていけば数字がおかしいことは誰が見ても明らかだ。メディアが指摘していればここまで戦果が水ぶくれすることはなかっただろう。大本営発表があそこまでおかしくなったことの大きな要因の一つは軍とメディアの癒着だ」と強調する。

(主要参考文献)

  • 辻田真佐憲「大本営発表」2016、幻冬舎
  • 富永謙吾「大本営発表の真相史」1970年、自由国民社
  • 吉田裕他「アジア・太平洋戦争辞典」2015年、吉川弘文館
  • 「現代史資料(37)」1967年、みすず書房
  • 森松俊夫「大本営」2013年、吉川弘文館
  • 松村秀逸「大本営発表」1952年、日本週報社
  • 種村佐孝「大本営機密日誌」1995年、芙蓉書房出版
  • 原剛ら編「日本陸海軍事典コンパクト版」2003年、新人物往来社