1945年8月、アメリカが広島と長崎に落とした原子爆弾は、市井の人々の命と日常を一瞬で奪った。高齢となった被爆者は、今も不安や苦しみを抱えている。
「悲劇を繰り返さない」。誰よりも平和の尊さを知る人たちは、自らの体験を語り継ぎ、「核なき世界」の実現を願っている。
ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器使用の脅威が高まる今、共同通信アーカイブに保存されていた報道写真などから広島と長崎を襲った悲劇を見つめる。
このコンテンツは、人類史上初めて戦争で使われた核兵器について、それがもたらした被害の実相を伝えることを目的としています。一部に原爆で犠牲になった方の写真を含みます。閲覧する際はご注意ください。
Index
第1章
広島を襲った惨劇
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」はウラン型原子爆弾の「リトルボーイ」を広島市に投下した。
原子爆弾は、市中心部の広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)付近の上空約600メートルで爆発し、強烈な熱線や放射線、爆風で広範囲が瞬時に壊滅した。 放射性物質を含む黒い雨も降った。
市の推計では、市内にいた約35万人のうち約14万人が1945年末までに亡くなった。生き残った被爆者は、 現在もがんなどの病気やトラウマ(心的外傷)に苦しんでいる。
広島への原爆投下/映像提供:米ロスアラモス国立研究所/Footage courtesy of the National Security Research Center at Los Alamos National Laboratory
旧ソ連調査団が撮影した原爆投下直後の広島市内/映像提供:広島市
第2章
長崎を襲った惨劇
広島への原爆投下から3日後の8月9日、アメリカ軍のB29爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を長崎市に投下した。
原子爆弾は午前11時2分、長崎市松山町の上空約500メートルで爆発した。
爆心地付近の地表温度は3000~4000度に達したとされる。爆風や熱線、火災などで1945年末までに死者は約7万4000人、 重軽傷者は約7万5000人に上ったと推計されている。
長崎上空に広がる原爆のきのこ雲=1945年8月9日、米陸軍航空隊撮影(ACME)
旧ソ連調査団が撮影した原爆投下直後の長崎市内/映像提供:広島市
第3章
ノーモア・ヒバクシャ
広島と長崎で原爆に遭った人たちは、戦後も苦しみとともに歩んだ。
生き残ったことへの自責、差別と孤立、放射線にむしばまれた体…。
それでも仲間と支え合う中で、核兵器廃絶に使命を見いだした。
隔日100CCの輸血を受ける原爆症患者=1956年、広島赤十字病院