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共同通信
2023年5月2日公開


1945年8月、アメリカが広島と長崎に落とした原子爆弾は、市井の人々の命と日常を一瞬で奪った。高齢となった被爆者は、今も不安や苦しみを抱えている。 「悲劇を繰り返さない」。誰よりも平和の尊さを知る人たちは、自らの体験を語り継ぎ、「核なき世界」の実現を願っている。
ロシアによるウクライナ侵攻で核兵器使用の脅威が高まる今、共同通信アーカイブに保存されていた報道写真などから広島と長崎を襲った悲劇を見つめる。

このコンテンツは、人類史上初めて戦争で使われた核兵器について、それがもたらした被害の実相を伝えることを目的としています。一部に原爆で犠牲になった方の写真を含みます。閲覧する際はご注意ください。

Index

第1章
広島を襲った惨劇

1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」はウラン型原子爆弾の「リトルボーイ」を広島市に投下した。

原子爆弾は、市中心部の広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)付近の上空約600メートルで爆発し、強烈な熱線や放射線、爆風で広範囲が瞬時に壊滅した。 放射性物質を含む黒い雨も降った。

市の推計では、市内にいた約35万人のうち約14万人が1945年末までに亡くなった。生き残った被爆者は、 現在もがんなどの病気やトラウマ(心的外傷)に苦しんでいる。

広島への原爆投下/映像提供:米ロスアラモス国立研究所/Footage courtesy of the National Security Research Center at Los Alamos National Laboratory

爆心地付近の広島商工会議所から南東を望む=1945年9月下旬から10月
爆心地付近の広島商工会議所から南東を望む=1945年9月下旬から10月
爆心中心地のドーム付近=1945年9月下旬から10月
爆心中心地のドーム付近=1945年9月下旬から10月
原爆投下で通行中の人の影だけが残り周囲は瞬間的な熱線と放射線で表面が変化した、広島市=1945年9月下旬から10月
原爆投下で通行中の人の影だけが残り周囲は瞬間的な熱線と放射線で表面が変化した、広島市=1945年9月下旬から10月
広島市内で放射線測定に取り組む科学者たち=1945年9月下旬から10月
広島市内で放射線測定に取り組む科学者たち=1945年9月下旬から10月

旧ソ連調査団が撮影した原爆投下直後の広島市内/映像提供:広島市

広島逓信局から見た常葉橋(左奥)近くの惨状。画面上部の黒点は現像むらの跡=1945年8月10日か11日、
            この写真は大阪大学調査団(団長・浅田常三郎教授)に同行した同盟通信社大阪支社の中田左都男記者が撮影
広島逓信局から見た常葉橋(左奥)近くの惨状。画面上部の黒点は現像むらの跡=1945年8月10日か11日、 この写真は大阪大学調査団(団長・浅田常三郎教授)に同行した同盟通信社(共同通信の前身)大阪支社の中田左都男記者が撮影
広島逓信局から見た常葉橋(左奥)近くの惨状。画面上部の黒点は現像むらの跡=1945年8月10日か11日、
            この写真は大阪大学調査団(団長・浅田常三郎教授)に同行した同盟通信社大阪支社の中田左都男記者が撮影
八丁堀付近の電車通りで被爆し、全焼した路面電車。左後方に見える建物は流川教会=1945年8月10日か11日、 この写真は大阪大学調査団(団長・浅田常三郎教授)に同行した同盟通信社大阪支社の中田左都男記者が撮影した
原爆投下で通行中の人の影だけが残り周囲は瞬間的な熱線と放射線で表面が変化した、広島市=1945年8月6日
原爆で瞬時に焦土と化し、煙突だけ残った広島市街の一部。中国新聞本社屋上から東南を望む。右下は現在の中区堀川町にあった久保田醤油の煙突。 この煙突の先端部分は原爆資料館に保存されている。左の山は比治山、右端後方の山は金輪島=1945年8月10から17日の間

 

西練兵場付近の被爆死体。下の黒点は現像むら=1945年8月17日

被爆死体。下の黒点は現像むら=1945年8月10日から17日の間。この写真は、同盟通信大阪写真部の佐伯敬氏が撮影した

陥没し歪んだ広島市稲荷町の電車専用橋の線路=1945年8月
陥没し歪んだ広島市稲荷町の電車専用橋の線路=1945年8月
焼けただれた被爆者の脚=1945年8月10日から17日の間
焼けただれた被爆者の脚=1945年8月10日から17日の間
被爆後の広島の航空写真。円内の色の濃い部分は原爆で完全に破壊された所を示す。
            軍事施設と工業施設には番号が振られ、それぞれの破壊の程度が記されている=1945年8月、米陸軍航空隊情報部撮影(ACME)
被爆後の広島の航空写真。円内の色の濃い部分は原爆で完全に破壊された所を示す。 軍事施設と工業施設には番号が振られ、それぞれの破壊の程度が記されている=1945年8月、米陸軍航空隊情報部撮影(ACME)
原爆投下から1年後の広島市=1946年8月5日
原爆投下から1年後の広島市=1946年8月5日
爆投下から1年、まだ焼け野原が目立つ広島市街。八丁堀の福屋デパートから南東方向を望む。後方中央の富士山のような山は金輪島=1946年8月5日
原爆投下から1年、まだ焼け野原が目立つ広島市街。八丁堀の福屋デパートから南東方向を望む。後方中央の富士山のような山は金輪島=1946年8月5日
広島市全景、中央右寄りに原爆ドーム(空撮)(AP=共同)=1947年
広島市全景、中央右寄りに原爆ドーム(空撮)(AP=共同)=1947年(撮影日不明)
初の広島平和式典、原爆ドームと出席者たち=1947年8月6日
初の広島平和式典、原爆ドームと出席者たち=1947年8月6日

第2章
長崎を襲った惨劇

広島への原爆投下から3日後の8月9日、アメリカ軍のB29爆撃機「ボックスカー」は、プルトニウム型の原子爆弾「ファットマン」を長崎市に投下した。

原子爆弾は午前11時2分、長崎市松山町の上空約500メートルで爆発した。

爆心地付近の地表温度は3000~4000度に達したとされる。爆風や熱線、火災などで1945年末までに死者は約7万4000人、 重軽傷者は約7万5000人に上ったと推計されている。

長崎上空に広がる原爆のきのこ雲=1945年8月9日、米陸軍航空隊撮影(ACME)

旧ソ連調査団が撮影した原爆投下直後の長崎市内/映像提供:広島市

廃虚と化した長崎市街=1945年8月9日
廃虚と化した長崎市街=1945年8月9日
廃虚と化した長崎市街=1945年8月9日
廃虚と化した長崎市内=1945年8月9日
長崎の原爆爆心地に近い丘の中腹に掘られていた防空壕=1945年8月
長崎の原爆爆心地に近い丘の中腹に掘られていた防空壕=1945年8月
原爆投下で壊滅した長崎市街の航空写真=1945年9月、米陸軍航空隊撮影(ACME)
原爆投下で壊滅した長崎市街の航空写真=1945年9月、米陸軍航空隊撮影(ACME)
原爆投下後の長崎の住宅地域。後方の丘が盾となって被害を緩和した。手前の空き地は人工的な防火帯=日時不明
原爆投下後の長崎の住宅地域。後方の丘が盾となって被害を緩和した。手前の空き地は人工的な防火帯=日時不明
原爆投下後の長崎の浦上天主堂=1945年9月(ACME)
原爆投下後の長崎の浦上天主堂=1945年9月(ACME)
カトリック信徒の祈りが絶えぬ原爆祈念碑に見守られ、復興進む長崎港=1947年8月1日
カトリック信徒の祈りが絶えぬ原爆祈念碑に見守られ、復興進む長崎港=1947年8月1日
夏草繁る長崎原爆の爆心地に平和の祈りを捧げるカトリック信徒=1947年8月1日出稿
夏草繁る長崎原爆の爆心地に平和の祈りを捧げるカトリック信徒=1947年8月1日配信

第3章
ノーモア・ヒバクシャ

広島と長崎で原爆に遭った人たちは、戦後も苦しみとともに歩んだ。

生き残ったことへの自責、差別と孤立、放射線にむしばまれた体…。

それでも仲間と支え合う中で、核兵器廃絶に使命を見いだした。

隔日100CCの輸血を受ける原爆症患者=1956年、広島赤十字病院

米海軍調査団の報告書にある長崎の被爆者の写真。頭に部分的な脱毛があるとし、左の肩と腕にある火傷が治癒していると説明している(国家安全保障公文書館提供)
アメリカ海軍調査団の報告書にある長崎の被爆者の写真。頭に部分的な脱毛があるとし、左の肩と腕にある火傷が治癒していると説明している(国家安全保障公文書館提供)
被爆した子供のケロイド。敗戦後まもなく米軍調査団が持ち帰り、
          病理標本、組織標本などとともにワシントンの米陸軍病理学研究所に保管されていた原爆資料の写真
被爆した子供のケロイド。敗戦後まもなくアメリカ軍調査団が持ち帰り、 病理標本、組織標本などとともにワシントンのアメリカ陸軍病理学研究所に保管されていた原爆資料の写真
広島市公会堂で開催された第1回原水爆禁止世界大会=1955年8月6日
広島市公会堂で開催された第1回原水爆禁止世界大会=1955年8月6日
被爆者援護法の制定、核全面禁止の国際協定締結などを求めて米国大使館にデモをする原爆被災者の会など日本被団協の人たち
          =1974年8月2日、東京・赤坂の米国大使館前
被爆者援護法の制定、核全面禁止の国際協定締結などを求めてアメリカ大使館にデモをする原爆被災者の会など日本被団協の人たち =1974年8月2日、東京・赤坂のアメリカ大使館前
1982年の国連軍縮特別総会で、長崎で被爆した自身の写真を手に訴える山口仙二さん=米ニューヨーク(UPI=共同)
1982年の国連軍縮特別総会で、長崎で被爆した自身の写真を手に「ノーモア・ヒバクシャ」と訴える山口仙二さん=米ニューヨーク(UPI=共同)
2010年5月、NPT再検討会議で自らの写真を手に体験を話す谷口稜曄さん=米ニューヨーク(共同)
2010年5月、NPT再検討会議で自らの写真を手に体験を話す谷口稜曄さん=米ニューヨーク(共同)
平和記念公園を訪れたオバマ米大統領(当時)と言葉を交わす坪井直さん(右)。左は安倍首相(当時)=2016年5月27日、広島市(代表撮影)
平和記念公園を訪れたオバマ米大統領(当時)と言葉を交わす坪井直さん(右)。左は安倍首相(当時)=2016年5月27日、広島市(代表撮影) 坪井さんは広島工業専門学校(現在の広島大学工学部)3年生の時、通学中に爆心地から約1.2キロで被爆し、大やけどを負った
原爆ドーム前でロシアのウクライナ侵攻に抗議する市民ら=2022年4月10日、広島市
原爆ドーム前でロシアのウクライナ侵攻に抗議する市民ら=2022年4月10日、広島市
長崎市の爆心地公園に並べられたキャンドルに手を合わせる親子=2022年8月8日夜
長崎市の爆心地公園に並べられたキャンドルに手を合わせる親子=2022年8月8日夜
長崎市の平和祈念像=2023年2月
長崎市の平和祈念像=2023年2月
原爆資料館内に展示されている犠牲者の写真や遺品=広島市
原爆資料館内に展示されている犠牲者の写真や遺品=広島市
「国際賢人会議」委員らとの意見交換で発言する日本被団協の木戸季市事務局長(中央)=2022年12月10日、広島市
「国際賢人会議」委員らとの意見交換で発言する日本被団協の木戸季市事務局長(中央)。国際賢人会議は、 「核兵器のない世界」に向け、核兵器保有国と非保有国双方からの参加者が議論する会議で、2022年12月に広島で初会合を開いた=2022年12月10日、広島市