能登半島地震の被災地では四季折々の景色が広がる一方、災禍の爪痕は今も残り、復興の途上にある。
現地のさまざまな彩りをレンズで追った。
2025年4月
桜色の鉄路、復興願う汽笛
(石川県七尾市)
汽笛を鳴らし、淡いピンク色に染まる桜並木をゆっくりと進む。能登半島地震で甚大な被害を受けた石川県穴水町と七尾市を結ぶ第三セクター「のと鉄道」。被災地を彩る春の景色に溶け込む。地震で土砂がトンネルに流入するなどして運休したが、3カ月後に全面再開。人口減少が加速する中、住民の足として復興を支える。旧国鉄時代に沿線に植えられた桜が咲き誇り、列車と織りなす景観は地域の宝だ。中でも「能登さくら駅」の愛称で親しまれる能登鹿島駅は名所の一つ。子どもと訪れた七尾市の辻田明子(つじた・あきこ)さん(41)は、線路沿いの自宅が地震で半壊し、家族6人とみなし仮設で暮らす。周辺では建物の解体作業が進行中。「先の生活が見えず不安ばかりだが、桜を見ると心が癒やされる」震災後、「がんばろう能登」と書かれた桜色のヘッドマークを付け再始動した車両。住民の思いをのせ、今日も被災地を走る。
5月
赤い火花、心こもるつち音
(石川県能登町)
鉄をたたき、刃を削る音が響く。赤い大粒の火花が飛び散る。能登半島地震で被災した石川県能登町の「ふくべ鍛冶」。職人らが日々、刃物の製造や修理に励んでいる。創業1908年の老舗の野鍛冶。くわや鎌、漁具や包丁を修復し、地域の暮らしを支える。起伏の多い山間部を車で回り、移動手段のないお年寄りの要望にも応えてきた。刃物を研いで宅配するサービスで全国に販路を拡大。社員も16人にまで増え、軌道に乗った時に激震に襲われた。多くの従業員が被災し、3人が町外へ転出。残る職人らは避難所から通い、山水を使って刃を磨いた。全国から届いた千通を超える応援の手紙が、大きな励みになった。4代目社長干場健太朗(ほしば・けんたろう)さん(45)は「温かい言葉に勇気づけられた」と振り返る。震災で過疎化がいっそう進む中、「ここで奮闘し、復興の後押しをしたい」。感謝を込め、研がれた道具の刃先は輝いていた。
6月
緑の若葉に背中押され
(石川県輪島市町野町)
「元気出るわいね」。農業用ハウスに広がる緑のじゅうたんを見つめ、石川県輪島市町野町のホウレンソウ農家池口千代枝(いけぐち・ちよえ)さん(76)は喜びをかみしめた。能登半島地震と記録的豪雨で被害に遭い、今春ようやく営農再開にこぎつけた。夫と一から栽培方法を学び、家族で営む。「えぐみが無く、やわらかい」と評判で県内有数の生産量を誇った。だが地震により37棟あったハウスの半分を失い、さらに豪雨に襲われ6棟が土砂に埋もれた。3世代で暮らす自宅は全壊し、再建の見通しは立っていない。新たな災害への不安と過疎が進む現状に、息子は妻子と町外への移住を決めた。「孫のこともあるし、引き留められねえ」。池口さんの表情に寂しさがにじんだ。6月、新設したハウスに若葉が並んだ。収穫量は震災前の半分に落ち込んだが、仕事の再開が何よりもうれしい。「やっぱり、気持ちを一押ししてくれる」と池口さん。みずみずしい新芽を見ると、力が湧いてきた。
7月
絆つなぐオレンジの炎
(石川県能登町宇出津)
燃えさかるオレンジ色のたいまつの下、巨大な灯籠「キリコ」が乱舞する。石川県能登町宇出津(うしつ)の「あばれ祭」。火の粉を浴びた担ぎ手たちが勢いよく灯籠を動かすと、港町は熱気に包まれた。約350年続くとされる奇祭。町を離れてもこの日に帰省する人は多く、地域が誇る文化だ。能登では昨年、地震の影響で開催を見送る夏祭りが相次いだが、あばれ祭は町民らの思いを受けて決行した。ただ、一部の地区は担い手不足などを理由に参加を諦めた。仙人町地区もその一つ。今年は支援団体などの手を借り、2月ごろから人の確保に奔走。2年ぶりに参加し、被災の爪痕が残る町を練り歩いた。運行責任者の洲崎泰通(すさき・やすみち)さん(30)は「悔しさを乗り越え、皆で力を合わせてキリコを動かせた。絆が強まった」と喜んだ。地震以降、人口流出は加速し、人集めがより困難に。それでも「祭りは住民の心をつなぐ大事なもの。この先も続けられるように、力になりたい」
8月
海青く、イルカすむ島で
(石川県七尾市)
陽光に輝く青い海をゆったりと泳ぐ。甲高い鳴き声を上げ、力強く尾びれを振る。石川県・七尾湾に浮かぶ能登島に生息する野生のミナミバンドウイルカ。2001年ごろにすみ着き、島のシンボルとして愛されている。地元の島で民宿「山水荘」を営む石田直人(いしだ・なおと)さん(42)は、初めてイルカを見た時の感動を今も覚えている。「みんなも喜ぶはず」。一緒に泳げるツアーが人気を呼び、経営が軌道に乗った時に、能登半島地震が襲った。津波が一部に到達し、地盤は沈下。宿は休業を余儀なくされ、夜も眠れない日々が続いた。避難生活を送っていたある日、海面を泳ぐイルカの群れが目に留まった。地震後も変わらず、悠々と動き回る姿にほっとした。「またイルカに会いたい」―。全国から届く声に応えようと奮起した。昨年5月にツアーを再開し、観光客は少しずつ戻り始めている。だが地震で過疎化が進み、寂しさは拭えない。「ここから地域を盛り上げたい」。石田さんは力を込めた。
9月
黄金色の稲穂、復興の一歩
(石川県輪島市)
黄金色に輝く稲穂が、こうべを垂れて風にそよぐ。石川県輪島市の国指定名勝「白米千枚田(しろよねせんまいだ)」が実りの秋を迎えた。能登半島地震と記録的豪雨による被災から、一歩ずつ前に進む。1004枚の棚田が海沿いに連なる。大型の機械が入れず、耕作は手作業だ。地元住民らによる愛耕会が維持管理する。地震で約8割の田んぼに亀裂などが入り、住民らは約100キロ離れた避難先から通い、修復作業を繰り返した。発災から8カ月後、約120枚で育てた米を収穫。喜びもつかの間、今度は激しい雨が襲い、直した田は再び崩れた。白尾友一(しらお・ともかず)代表(62)は「心が折れた」と振り返る。無気力、絶望。自然の猛威に打ちのめされながらも、仲間と少しずつ土を踏み固めていった。今年9月、全国から集まったボランティアと共に稲を刈る愛耕会の姿があった。「多くの人の協力があり、やっとここまで来た」と目を細める白尾さん。作付けは昨年比2倍の約250枚。「まだ先は長い。これからです」。千枚田の復旧は続く。
10月
伝統つなぐ白い塩
(石川県珠洲市)
静寂が包む晩秋の夜。白い湯気が立ち上る中、直径約2メートルの大釜で炊かれた塩水が、ぐつぐつと煮立ち始めた。石川県珠洲市の製塩所「奥能登塩田村」。能登半島地震と記録的豪雨に遭うも「伝統を絶やすまい」と職人が塩作りに励んでいる。400年以上続く「揚げ浜式」製塩法。海からくんだ海水を砂地の塩田にまき、自然乾燥させ釜で煮詰める。粒が粗く、まろやかな甘みが特徴だ。地震で海岸の地盤が隆起し、海水のくみ上げができなくなった。水道や電気は断たれ、従業員らは市外へと離散。一部の職人らで再開にこぎ着けたが、発災の8カ月後、今度は激しい雨が襲った。大量の土砂が塩田を覆い、釜屋にも流入。「自然の力には逆らえず、なすすべがなかった」。浜士の浦清次郎(うら・せいじろう)さん(57)は、ぼうぜんと立ち尽くした当時を振り返る。再び前を向けたのは、多くの温かい声援があったから。「(苦境でも)塩作りを続けてほしい」。先代の親方が、生前に言い残した言葉とも重なった。「この地に続く伝統を守り、次世代につなげたい」―。浦さんは今、その思いを強くしている。
11月
希望の滴、白と黒の牛
(石川県能登町)
鳥のさえずりが響く初冬の朝。薄暗い牛舎で白黒模様の牛たちが黙々と草をはんでいた。石川県能登町の山あいにある「西出牧場」。2024年元日の能登半島地震で被災するも、復興への思いが詰まった牛乳を届けようと奮起している。立山連峰を望む約16㌶の大地で、乳牛など約50頭を飼育。餌となる牧草は種から育てている。地震で牛舎は全壊。転倒した2頭の牛が足を負傷し、水は断たれた。「ここでやめるわけにはいかない」。酪農家西出穣さん(38)は牛の飲み水を確保するため、元日夜から牧場と川を往復。半壊の自宅で寝泊まりしながら世話に通った。しかし通水までの約2週間、搾乳機を洗えず生乳の廃棄を余儀なくされた。能登全体の生産量は震災前の8割未満。離農者が相次ぐ中、その土地が廃らぬように西出さんは整備を進める。思い描くのは、いつか新たな仲間と共に酪農する未来だ。「能登の美しい放牧風景を復活させたい」―。そう願い、西出さんは新鮮なミルクを搾り続けている。
