本土決戦見据え「戦闘訓練」疎開児童、映像捉える

- 太平洋戦争末期に国が政策として行った前例のない「学童集団疎開」。近現代史が専門の山田朗・明治大学教授と映像を見ながら考えた。
決戦準備と少年兵の予備軍育成
- ー小学生が戦闘訓練をしている様子が映像として記録されていた。
- 回想録として「竹やり訓練をした」などの証言はあっても、映像でかなり具体的なものを捉えているのは珍しい。陣地を構築して相手を迎撃するような訓練もあった。子どもたちを地域戦闘にどう組み入れるかという話につながる。軍事秘密に触れる可能性があり、オフィシャルなムービーにはないものだ。
- ーどのようなことが読み取れるか。
- 見る限り(訓練は)様になっていて、突然「やれ」と言われてできるものではない。普段から行っていたのだと想像できる。表向きに見せることを意識して撮影されたものだろうが、実態と全く異なるものとは思えない。
- ー当時、小学生で軍事訓練を行うことは普通だったのか。
- 中学生以上になると教育システムとして軍事教練はあった。小学校の場合は学校によりけりだ。剣道や薙刀を軍事教練の一環としてやっていたところもあれば、軍隊的な秩序を学ぶために行進をしたり、チャンバラのようなことをやったりする学校もあった。

- ー最悪の場合、小学生も戦闘に組み入れられる可能性があったのか。
- 軍部は、偵察要員などに小学校高学年の児童が役立つと重視していたと思う。また沖縄戦のことを考えれば、女の子も看護要員として任務に当たることができた。本土決戦になれば、沖縄戦よりもっと低い年齢の人たちが動員されていた可能性はある。
- 早い子であれば小学校を出てすぐに少年兵に志願する可能性があった。本土決戦を見越した準備と、少年兵の予備軍を育成するといった意味合いがあったのだろう。
地域に溶け込む努力の跡
- ー教科書を読みながら麦踏みをしている場面もあった。
- 子どもも先生もなんとか地域に溶け込んでうまくやっていきたい。そんな感じが見て取れる。疎開した子どもたちもただでご飯を食べるわけにはいかない。麦踏みをするとか田んぼの雑草を抜くとか、少しでも役に立てれば(地元の人たちとの)関係がよくなると考えたのだろう。
- ー疎開先となった農村などの当時の状況は。
- 想像以上にきつかったと思う。兵隊に人をたくさん出していて労働力が不足している一方、食糧も供出しないといけないから豊富にあるわけではない。
- ー苦労したのは受け入れ側も同じだったと。
- 表向きには言えないけれども、できれば受け入れたくないというのが本音だったところも多い。農作業に慣れていない都会の子どもたちは基本的には役に立たないわけだから。

新たな記憶の掘り起こしを
- ー政策としての学童集団疎開をどのように評価しているか。
- 都市空襲は苛烈なものになることはわかっていたので、やむを得なかったと思う。縁故疎開に比べると、子どもたちが学校単位で苦楽を共にすることができた点は集団疎開のメリットと言えるのではないか。ただ集団疎開をせざるをえないということは、日本はもう戦争の見込みがないことを意味する。王手がかかっていたわけだ。
- ー終戦から80年が経過し、戦争体験を証言できる人が少なくなっている。どう伝え残していくか。
- 2023年の統計では、日本の全人口のうち、敗戦した1945年時点で10歳以上だった人の割合は3%にも満たない。圧倒的な少数派だ。そうした人たちの声を聞く機会があるなら今聞いておかなければならない。
- 日本では7月や8月になると戦争の話題が増えるが、決して悪いことではない。不思議なもので、本人が忘れていることでも何かの拍子に思い出すことがあるからだ。今回のような映像に触れることで、今まで語っていなかった記憶がよみがえることもあり得る。新たな記憶を掘り起こしていく役目が映像や報道にはある。語り継いでいかなければならない。
やまだ・あきら 明治大学教授(日本近現代史)。1956年12月生まれ。著書に「護憲派のための軍事入門」「兵士たちの戦場」など。