【羽生結弦さんインタビュー】震災から14年「風化させないためのキッカケであり続けたい」 絆、輪、縁… 能登の被災地訪問で気付いた「ずっと続く支援の形」 3・11経験し「命について深く考えるように」

 東日本大震災についてインタビューに応じる羽生結弦さん(撮影:斎藤美雪)

 フィギュアスケート男子で冬季五輪2連覇の羽生結弦さん(30)が、3月11日で東日本大震災から14年となるのを前に出身地の仙台市で共同通信のインタビューに応じた。仙台のリンクで練習中に被災した当時を振り返りながら「マンパワーが集まる人間だからこそ、より一層、一人一人の力を大切にしながら、支援活動のきっかけになり続けたい」と言葉に力を込めた。(聞き手 藤原慎也)

人生の半分、向き合ってきた震災は「自分を変えた出来事」

 ―震災から14年。今の率直な思いは。
 「それほどの時がたったんだなという実感と、でも、いまだにあの頃の光景だとか、あの時感じた感情みたいなものと、怖さっていうのは、いまだに昨日のように思い出せる。両方とも共存している形ですね」

 ―30歳となり、人生の半分を震災と向き合ってきた。
 「できることはやってきたかなっていう気持ちではいます。それが僕にとっては、競技に対しての向き合い方っていうのももちろんですし、震災に対して、またはいろんなそれ以外の、3・11以外の災害に対しての向き合い方もそうですけど、僕ができることは全てこの14年間ずっとやり続けてきたなっていうことは思っています」

 ―かつて、震災と向き合うことは『スケート人生の一つの使命』だというふうに話していた。3・11が羽生結弦さんにとってどんな原点であり、ここまでの原動力になったのか。
 「一概にあれが起きたからっていうことを言うのは、ちょっとためらいがある。なかったに越したことは絶対なかったし、やっぱり起きなければ良かったなと思うことではあります。ただ、起きてしまったあの14年前からこうやって進んできた中で、あの経験があったからこそ、僕はより一層命について深く考えることになったし、より一層悲しみにたくさん触れたからこそ、より一層その悲しみに対して寄り添いたいって思えるようになれたのかな、というふうに思っている。簡単に原動力とは言えないんですけど、でも自分自身を変えた出来事ではありました」

 ―競技者としてもプロとしても妥協のないものをつくり上げてきた。震災と向き合い続けてきたからこそ、手を抜くことはできないという自分に課しているテーマか。
 「そこまで大げさなものではないんですけど、でもやっぱり期待してもらえるからにはその期待に応えたいし、その期待以上のものをやっぱり出したいっていうのは、プロとしてのプライドというか、自分がスケートを滑っていく中での矜持みたいなものというか、当たり前なものという感じはしています」
 「ただ、大げさではなく、その公演一つ一つに対して、本当に大げさではなく、生きているうちにその公演が最後になったよっていう方々がきっといらっしゃるはずなので。病気的な問題もあるかもしれないし、突然起こる災害的なものもあるかもしれない、事故もあるかもしれない、金銭的な問題もあるかもしれない、機会の問題もあるかもしれない。本当にいろんな要素が詰まってはいるんですけど、この言葉には。でも生で見た羽生結弦が、生で見たこの演技が最後になるっていう方々がいるのだとしたら、やっぱりそこに自分の最大限のものを詰め込まないと、やっぱりそれは誠実とは言えないのかなって僕は思っています」

東日本大震災についてインタビューに応じる羽生結弦さん(撮影:斎藤美雪)

復興支援のあり方を模索し続ける 「僕を応援してくださる方々の協力が一番」

 ―単独ツアーや9日までのアイスショー「notte stellata」では、生きていく尊さという言葉を観客に投げかけた。これはスケート人生としての使命っていう部分で、こだわり続けたいテーマでしょうか。
 「まあ、というよりも何かこだわっているというか、何か根源的にそういう人間だから、そういうテーマの表現になってしまうっていう方が強いんですかね。じゃあ、14年前以前はどうでしたかって言われたら、もちろん命についてすごく考えてはいましたけど、ここまで、何て言えばいいかな、誕生と死について、そこまで深く考えてないというか、そんなに考える必要がなかった感じはしていて」
 「やっぱり震災っていう出来事があったからこそ、そこからどんどん表現面に関しても、自分がスケートを滑る意義みたいなことに関しても、やっぱり支援だとか、そういったことにどんどん結びついていったので、何て言えばいいかな、こだわりを持っているという言葉ではなく、何が適切かちょっとぱっと思い浮かばなかったんですけど、根源的にやっぱり。うん、そうね。やっぱ根源的に自分がそういう思考を持っている人間なので、命に対して考え続けたいなって思い続けるし、やっぱり震災があったからこそ、こういう考えになって、こういう人間になったんだなということは思っています」

 ―以前から支援のあり方を模索し続けたいと語っている。いま羽生さんが思う支援との向き合い方についての考えを教えてほしい。
 「(7~9日に宮城県で開催した)今回の『notte stellata』は、演技でもちろん何かを伝えたいということとともに、輪島の朝市で商売をやってこられた方が、実際に会場で朝市みたいな形で出店してくださったりだとか、そういったものを、自分のことを見に来てくれた方々、アイスショーを見に来てくれた方々が購入してくださったりとかっていう輪が一つあったんですね。それがきっと僕ができる最大限の支援なんじゃないかな、っていうことを何となく思いました」
 「やっぱり僕1人で何か基金をつくったりとか、寄付を募ったりとか、何かのイベントを立ち上げて、そのお金で寄付をするとかって、やっぱり一時的なものにしかならないし、一時的なニュースになったとしても、どうしても、何だろう、人間って、その額が大きければ大きいほど、私にはできないって思う確率もやっぱり高くて、『やってくれてるからいっか』っていう感じにもならざるを得ないんだな、っていうことを何となく思っていた。僕はこれからも寄付の活動ももちろんしていくし、そういう支援っていうものはもちろんしてはいくんですけど、それプラス、僕を応援してくださっている方々が協力してくれるということが一番、これからずっと続いて、支援していける形なのかなっていうことに気がつけました」
 「それはやっぱり、僕がずっと常日頃から言ってきた、きっかけになりたいって言っていたこととつながってはいるんですけど、僕自身がこうやって震災に向き合ったり、震災に対して思いをはせる、またはその支援活動の一環としてのイベントをするっていうことがきっかけとなって仙台に来られたりとか。それこそ、今回、輪島の方々の商品を買ってくださったりとか、それで応援できるという形が一番、支援の輪が広がっていくっていう形になるんだなっていうふうには思いました」

 ―それは今年新たに感じたことか。
 「輪島の朝市の方にお話を聞いた時に『買っていただけたのがうれしかった』っていうのと、これだけの方々が商品に期待をかけてくださっていたし『応援の力をもらえた』みたいなことをおっしゃってくださって、僕は正直きっかけでしかなかったんですけど、それはやっぱり皆さんが集まるきっかけにしかなってはないとは思うんですけど、でもそれができたことは、こういうことが一番ずっと続く形での支援なんだなって思ったのと同時に、どれだけの方々に私は感謝を尽くせばいいんだろうっていうことにも、何か改めて気付いた出来事でした」

東日本大震災から14年に合わせたアイスショーで演技する羽生結弦さん=7日、宮城県利府町のセキスイハイムスーパーアリーナ(撮影:斎藤美雪)

輪島に行ったのは昨年6月 「人と人との交流って力になる」

 ―羽生さん自身、書籍の印税など多額の寄付をしてこられた。
 「でも、何かどうしても、印税もそうですけど、その寄付って形って、その時はトンって渡す行為ができるかもしれないけれども、何だろう、その思いがずっと続いていくという形にはなりにくいんだなと思っている。だからこそ、今回みたいに、自分がきっかけとなっていろんなことにその視野を広げていただいて、僕がきっかけで協力していただけるっていうことがすごくありがたいなと思ったのと同時に、頑張って呼びかけていけたらいいなっていうふうに思った出来事でしたね」

 ―羽生さん個人だけの頑張りではなく、輪を広げるっていうところに支援の形が見つかった。
 「一つの形なのかなっていうふうには思いましたね。でもそれはやっぱり来てくださった方々が実際に協力してくださらなければ意味がないし、本当にたくさんの方々が来てくださるからこそ、やっぱりこうやってキッカケになり切れているわけなので、まずはその方々に対しての感謝の気持ちが本当に強く強くあります。それプラス、そういう方々がより一層これからも、『羽生結弦のアイスショーを見に行こうか』ってなってもらえるような、ちゃんとキッカケとして機能するように、期待に応え続けたいなとは思います」

 ―石川県輪島市に行かれたのはいつですか。
「昨年の6月です」

 ―出店されたのは、その時にお会いされた方々。
 「そうですね、交流があった方々ですけど、他のニュースとかでも、やっぱりその朝市が機能しなくなって、実際に出張朝市みたいな形で他の店舗の中でやったりとかもしているんだけれども、お話を聞くと『やっぱりあそこでやりたいよね』っていう話があったりとかもして。でも、そこで交流の輪が増えることによって、やっぱり僕ら3・11の時もそうでしたけど、やっぱり人と人との交流って本当に力になるので、つらい時に。やっぱり、そういうのがちょっとでも力になってくれたらうれしいな、とも思います。ご足労いただくのは本当に大変なことだとは思うんですけど、ちょっとでもこういう活動が続いていくようなキッカケになっていったらうれしいな、とも思いますね」

東日本大震災についてインタビューに応じる羽生結弦さん(撮影:斎藤美雪)

知名度生かし「震災を風化させない」 「つらいこと残っているので、ずっと発信していきたい」

 ―印象的だったのが、能登復興のアイスショーをされた時に、いい意味でご自身の高い知名度を生かしていくとおっしゃっていた。震災や災害からの復興という点で、一つの広告塔として、いろんなものに向き合っていきたい。
 「そうですね。僕って本当に特殊な人間だと思うんですよ。実際に被災地で活動している最中に、ある程度報道がなされていた選手であって。やっぱり見てくださっていた方、応援してくださっていた方々の中にも、やっぱり被災者、被災地から頑張っていった姿を見てくださっている方々がたくさんいて。本当、それってすごく特殊なことだなって思っています。それで現在進行形で、これだけの多くの方々が応援してくださるっていうことも、やっぱり、すごくすごく特殊なことだと思っていて。だから、せっかくこんなにもマンパワーが集まる人間だからこそ、より一層、その人間同士の力を、一人一人の力をすごく大切にして、数じゃなくて、一人一人の持つ力に対して、すごく尊敬をしながら、大切にしながら、支援活動ということのきっかけになり続けたいなっていうか、風化させないためのきっかけであり続けたいなっていうふうに思います」

 ―以前、『頑張って』という言葉に誰よりも励まされた人間だと話していた。逆に自身がこれからも応援し続けたいと昨年言っていた。その思いは変わらず持ち続けていきたい。
 「そうですね、やっぱり3・11から14年っていう時がたってはいますけど、やっぱりいまだに家に帰れてない方もいたり、当時からそのままになっている家があったり、土地があったりもするし、いまだに解決できてない問題も、原発だけじゃなくて、他の地域でさえもやっぱりたくさんあって。傷痕はまだまだ地域によってかもしれないですけど、土地にも傷痕はもちろんあるし、心の中にも傷痕は間違いなくあるので、そこにずっと寄り添いたいなっていう気持ちで、とりあえず今はいますね」
 「難しいんですけど、正直それを思い出したくないっていう方もいらっしゃるし、もう全然大丈夫だよって言ってくださる方もいらっしゃる。3・11だけにやっぱりこだわってたら、他の地域の災害だっていまだにね、群発しているところも結構あるし、大船渡の山火事だってこの間鎮火されたばかりだったので、何か一言で表現しにくい状況ではあるんですけど、でも、3・11に関しては、まだまだつらいことが残ってはいるので、そこは僕がずっと発信していきたいことだし、ずっと心に留めていただきたい事柄だなっていうふうに思います」

 ―「notte stellata」に3・11のご自身の思いは全てぶつけてるというふうに昨年話していた。来年、そしてその次というふうにまた続けていきたいか。
 「ちょっと断言ができないんで、それはもう主催が僕じゃないので難しいんですけど、でも、ちょっと違う言い方をするけど、とにかくその3・11に対しての思いと、支援活動に対しては、ずっと芯を強く持って、ずっとずっと継続していきたいなっていう気持ちは強くあります」

東日本大震災から14年に合わせたアイスショーで演技する羽生結弦さん=7日、宮城県利府町のセキスイハイムスーパーアリーナ(撮影:斎藤美雪)

ソチ五輪後、最初の被災地訪問 「寄り添い合うこと続くのが大事」

 ―羽生さんが被災地訪問という形で最初に行かれたのが、初めて金メダルを取られた2014年ソチ冬季五輪後。
 「はい」

 ―宮城県石巻市に行かれた。当時は行くことにためらいがあった。そこから変わったものはあるか。
 「変わっていないものは、やっぱり部外者がそこに足を踏み入れて邪魔しちゃっていいのかなっていう気持ちは正直、いまだに変わってないところで、実際つらい現場に対して、つらくない人間が入ったところで、『おまえ、気持ち寄り添えてないだろ』って指さされたら、それ以上何も言えないなっていうことは、あの頃からずっと変わっていないです。それはもしかしたらソチオリンピックの会見の時からも全然変わっていない気持ちなのかもしれない。けれども、あの頃から変わったことは胸張って、自分が取ってきた結果、オリンピックの金メダルという二つのものと、これまでずっと演じてきたプログラムだったり、いろんな活動であったり、それらがその方々の笑顔になるキッカケにはなっているんだよっていうことは、胸を張って言えるようにはなったかなと思いますね」

 ―被災地を訪れることで、出てくる思いとは。
 「難しいんですよね、結局。それこそ、さっきの支援の輪が広がってほしいという話にちょっと近いかもしれないですけど、人一人がたとえ、がれきを動かすことをしたとしても、やっぱりそこには限度がすごくあるんですよね。でも、僕が3・11の時に本当に感じたのは、どれだけの人がいろんな絆を結んでくださって、その絆でどれだけ復興への道が早くなったかっていうことを、僕はすごく感じたんですよね、あの時。その絆が、元々は(1995年1月17日の)阪神淡路大震災の時に、宮城県からボランティアに行ってくれた人がいたから、その時の恩返しだよって言って、関西の方から来てくださった方々もいらっしゃったり、いろんな国から来てくださる方々もたくさんいらっしゃったし、そういう支援がなされたから、私が今度は恩返しする番だよっていうことを、どんどん、どんどんつながっていって、輪になっていって、絆になって継承されていくっていう姿を僕は見ていた」
 「実際、今現在の能登の話も、やっぱり僕らがお世話になったから、やっぱりボランティアに行きたいって言って、行ってくださっているボランティアの方々もたくさんいらっしゃったし、そういう人一人じゃなくて、一人一人のつながりをすごく大切にして、全部回っていったら、きっといい世の中になるんだろうなって漠然と思ってはいますね。それは被災地だけの話じゃなくて、いろんなことも多分そうだと思ってて、会社もそうだし、人間関係も多分そうだし、世界情勢の話もきっとそうだと思うんですけど、一人一人の心と一人一人のつながりと、それは家族だけじゃなくて、いろんな縁をすごく大事にして、大切に寄り添い合えば、すごくいい世の中になるんだろうなっていうのは思いますけどね。だからこそ最終的に一番大事なのは、人と人がつながって、ちゃんと心を寄り添わせるようなことができることがやっぱり最終的には大事で、それが続くことがすごく大事なんだろうなっていう感じはしますね」

ソチ五輪で金メダルを獲得し、日の丸を手にする羽生結弦=2014年2月、ソチ(共同)

冬季五輪1年前は「戦略立てていた」 「プロになったら、当たり前の世界」

 ―話は変わりますが、プロ3年目を走り抜けてきての進化を感じられたことはありますか。
 「毎公演、毎公演、いろんなことを学び、いろんなことに課題が出てきて、成長も実感し、みたいなことを毎日のように繰り返してきてたんで、何かこれがこうだよって簡単に言えることはもちろんないんですけど、ただ、今回は野村萬斎さんっていう大きな存在とやっぱりコラボレーションさせていただけたことによって、ちょっとはその表現の世界っていうか、いわゆる何て言うんだろう、プロとして何かを伝える立場に土俵にちょっとでも上がることができ始めたんだなっていう実感はちょっとできました」

 ―既に土俵に立って横綱感はあるが、ご自身の中で土俵に立ったっていう、まだまだもっと極めていける部分があると。
 「いや、やっぱり実際にその野村萬斎という存在の圧というか、格を、その自分がたぶん一番目の前で見てるので、その目の前で見た実感としては、うん、まだ若いなって思いました。まだまだ青いんだなっていうのは、すごく思いましたね。もちろん、『SEIMEI』に関しては、その青さがあったからこそ、何かこういう表現ができたよねっていうところもきっとあるとは思うんですけど、でも、もっともっと、学ばなきゃいけないことと、進化しなきゃいけないことと、知らなきゃいけないことがたくさんあるんだなっていうのは、何か思いました」

 ―空気を支配するって言いますか。
 「いや、だって、萬斎さんはもうそこに存在しているだけで、立っているだけで、何だろう、その世界っていうか、空間が広がっていく感じがやっぱりするんで。そこまで行けるかと言われたら、フィギュアスケーターはそういうものではないのかもしれないんですけど、でも、その表現っていう世界においてそういうものがあって。それをするためにはどういうことが必要なのかなっていうことを、僕は吸収して、どんどん学んでいって、自分のものにしていかなきゃいけないなっていうのはすごく思います」

 ―最後に一つ。ミラノ・コルティナ五輪まで1年を切った。羽生さん自身、ソチ、平昌、北京と3度、それぞれ違う立場での1年前を過ごしていた。今振り返られて、五輪1年前の重要性とは。
 「オリンピック1年前か。ひたすら戦略を立てていました。どういうふうにオリンピックのためにピークを持っていくのか、どういうふうにオリンピックのために考えを深めていくか、技術を高めるスケジューリングをするか、みたいなことをずっと考えはしましたね。でもそれは、今僕はオリンピックというものから離れて感じるのは、それを毎年というか毎週のスパンでやっていて、今現在は、プロになったらもうそれは当たり前な世界であって、それが萬斎さんと、やっと同じ土俵に立てたかなぐらいのところに立ったっていうのがその感じで、いわゆる今までは4年スパンでそれは何となくやっていれば良かったけど、今は本当に毎公演ずつやらなきゃいけないし、言ってみたら毎週育たなきゃいけないしっていうことを今振り返ると思いますね」

東日本大震災から14年に合わせたアイスショーで、狂言師の野村萬斎さん(左)と共演する羽生結弦さん=7日、宮城県利府町のセキスイハイムスーパーアリーナ(撮影:斎藤美雪)

Profile

 羽生 結弦(はにゅう・ゆづる)さん 冬季五輪は初出場の2014年ソチでアジア勢初の男子制覇を果たし、2018年平昌で66年ぶりの2連覇。2022年北京は4位。2014、2017年に世界選手権を制し、2013~2016年にグランプリ(GP)ファイナルを4連覇。全日本選手権は6度優勝した。2016年に世界初の4回転ループ成功。2022年7月にプロ転向を表明した。早稲田大卒。1994年12月7日生まれの30歳。仙台市出身。

東日本大震災の被災者らに向けて「共に、前へ」とメッセージを寄せた羽生結弦さん(撮影:斎藤美雪)
藤原 慎也

この記事を書いた人

藤原 慎也 (ふじわら・しんや)

全国紙で5年間の勤務を経て、2014年に入社。名古屋でプロ野球中日を取材。2016年末に東京運動部へ異動し、フィギュアスケート、体操、パラスポーツを担当。だんじり祭りで有名な岸和田市育ち。