【第2回・銀盤の未来】「日本一のリンク目指そう」と氷質探求 改革主導で新時代「氷都八戸」支える 坂頂昭治さん、羽生結弦さんと縁も

アイスショー「プロローグ」で演技する羽生結弦さん=2022年12月5日、フラット八戸

 東北新幹線が停車する八戸駅から車で約20分。昨年10月にフィギュアスケートの東日本選手権が行われたテクノルアイスパーク八戸は、1984年5月の完成から40年の節目を迎えた。「氷都」と称され、スケートが盛んな八戸市であっても一般客が減る苦境にある。しかし、「日本一」のリンクを目指して氷の質を高め、アイスショーや大会、合宿の誘致で県外の利用者を呼び込んできた。
 施設の指定管理者「エスプロモ」社の坂頂昭治代表取締役(66)は同社が八戸市体育振興公社から民営化して誕生した2008年以降、リンクの改革を主導した。「競技レベルが一番高いものを見られるようにするには、やっぱりスケートリンクの品質。いい競技環境を提供するのが僕たちの役割」と強いこだわりを持つ。(聞き手 大島優迪)

テクノルアイスパーク八戸のリンクサイドに立つ「エスプロモ」社の坂頂昭治代表取締役=2024年10月、テクノルアイスパーク八戸

品川で「全然違う」スケート体感 故郷戻り、整氷など業務に本腰

 坂頂さんは八戸市出身。学校の授業や遊びの一環で屋外リンクや水たまりに張った氷で気軽にスケートで滑れる環境で育った。ただ、子どもの時は野球、高校時代はサッカーに熱中。東京の大学に進学しながら品川プリンスホテルに当時、併設された「品川スケートセンター」で働き、整氷担当になって本格的にスケートと関わるようになった。
 同センターはリンクを3面備え、フィギュアスケート専用のリンクもあったという。アイスホッケーの西武鉄道のホームリンクとして使われたほか、フィギュアスケートの全日本選手権が何度も開催されるなど、国内のスケート文化を支えた。
 坂頂さんはスケートになじんで育ったが、日本のトップ選手や指導者が集まる環境では「全然違う」スケートを体感した。練習や試合を間近で見た際の高い技術や格好良さに加え「心を動かすようなところがあった」。整氷のノウハウを習得しながら「日本一のリンクだと感じて仕事をしていた」と実感を込める。

全日本選手権女子シングルで2位の伊藤みどり、優勝の加藤雅子、3位の吉盛ゆかり(左から)=1984年1月8日、品川スケートセンター

 1984年、八戸市にリンクができることを機に故郷に戻り、エスプロモ社の前身の八戸市体育振興公社に就職。その後の約25年間は運営や予算策定の業務を担当していたが、エスプロモ社の設立の後に代表取締役に就任し、氷に直接関わる業務に本腰を入れ始めた。
 坂頂さんが「かつてのプリンスのように日本一を目指そう」と奮い立った背景には家族の存在もある。妻は品川のリンクでフィギュアスケート選手を指導していた元コーチで、息子の達也さんと娘のみなみさんもアイスダンスのカップルとして国際大会に出場した経験もある実力者だった。
 ある日、国内外のリンクで滑る経験を積んだ子どもたちから「どうして(テクノルアイスパーク八戸がある)新井田のリンクは氷が滑らないの?」と聞かれた。坂頂さん自身も子どもの大会の応援や練習の送迎で各地を訪れた際、選手が滑っている音やジャンプで着氷したときの音などから競技がしやすいリンクを観察していたが、当時のテクノルアイスパーク八戸が滑りにくいとの実感もあった。

全日本選手権のアイスダンス規定に出場した坂頂みなみ、坂頂達也組=2006年12月、名古屋市総合体育館

ショー誘致でフィードバック 荒川静香さんらから助言も

全日本選手権で優勝した田村岳斗の自由演技=2003年12月27日、長野市ビッグハット

 坂頂さんによると、当時の八戸はスピードスケートやアイスホッケーが中心。八戸市出身で宮城・東北高に進学した1998年長野冬季五輪代表の田村岳斗さんらも輩出したが、地元の競技レベルはそこまで高くなく、氷の質もフィギュアスケート向きではなかった。
 「公共施設だと(リンクの)貸し出しなどで制限が多くて、競技団体もなかなか思うようにできないというのはある。だけど田舎や地方だとそういうふうに(受け身の姿勢で)やっていたら人が来てくれないでしょう。だったら人が来てくれるようなものをそろえようと思った」。そこでアイスショーを誘致しようと決めた。
 ショーに出演したトップスケーターにリンクについてフィードバックをもらい、少しでも滑りやすいようにする狙いだった。常設で約1500席のスタンドを備えていることもプラスに働いた。初めて八戸でアイスショーを開催したのは2010年の「プリンスアイスワールド」。荒川静香さんや本田武史さん、エフゲニー・プルシェンコさん(ロシア)らトップスケーターのほか、ジュニア時代の羽生結弦さんも出演した。

慈善アイスショーで子どもたちを教える浅田真央(右)と村上佳菜子(左)=2011年7月27日、青森県八戸市の新井田インドアリンク(現テクノルアイスパーク八戸)

 坂頂さんはショーの合間に整氷スタッフを集め、荒川さんや本田さんから助言を求めた。「うちの連中には『スケーターの感覚を理解できる努力をして』と伝えた。自分では分からないかもしれないけど、それを理解してかみ砕こうとする感覚。例えば『トー系のジャンプは良く上がるけど、エッジ系がちょっと』という感覚。『トーを突いた時に反発で上がりやすい』とか」。整氷時間にはジャンプを跳んだ際にできる穴を必ず確認した。氷の硬さや状態によって穴の大きさが変わるからだ。
 2011年には東日本大震災の被災者を無料招待する慈善アイスショーを開催。震災後は建物が損壊したり、電気代の節約のために氷を溶かしたりしたリンクも多く、東北で被災者を招待できるような場所は八戸しかなかったという。
 浅田真央さんらが出演したこのショーで坂頂さんは場内に揺れるほどの歓声が響き、観客が涙を流していたことを今でも覚えている。「やっぱり人の心に響く力がある。若い時に品川で僕が見たものが八戸でもできる、地方の都市であっても可能だ」と実感した。

インタビューに答える「エスプロモ」社の坂頂昭治代表取締役=2024年10月、テクノルアイスパーク八戸

プロとしての姿勢も刺激に 地道な取り組みで競技レベルも向上

 一流スケーターのアドバイスを参考にしつつ、自ら氷の研究にも努めた。1972年札幌、1998年長野両冬季五輪の際に国内の学者が氷を比較して研究した論文などを調べ、最も滑りがいい氷の表面の温度を探った。また、氷の厚さを約4センチに均一に保てるようにリンクの20カ所以上を計測できるようにした。八戸の氷の「ポジションがどれくらいなのか」知るため、各地のリンクに出向き、自ら滑って確かめることもあった。
 ショー開催で刺激になったのは氷への探究心だけではなく、プロとしての姿勢だ。ショーを演出する照明や音響の担当者が細部までこだわる様子を見て「どんなところもレベルの高い仕事をしている裏方さんはみんな細かくやっている。それを一緒に働いて見ていたら『これがやっぱりプロだわ』と思った」
 20人以上いる整氷担当者は誰が担当しても同じ氷質を保てるように指導してきた。また「社員ができることを増やせるように」とショーの開催時はアルバイトを雇わず、社員を動員して観客の接客や誘導にあたった。

テクノルアイスパーク八戸で開催してきたアイスショーの写真や出演者のサイン

 氷の品質を徐々に改善して評判を高めると市外の利用者も増え始めた。「夏休みに東京など(リンクが混み合う)大都市のスケーターや大学生が地方で滑る場所を求めているのも分かっていた」。需要が増えるのに合わせ、オープン時期を9月から7月半ばに早めた。アイスホッケーの利用者の需要にも応えると国内だけでなく、韓国や中国のアイスホッケーチームも合宿で訪れた。
 一般客が減っても貸し切り利用の枠を埋めることで収入を確保でき、坂頂さんは「そうやって選んでいただける場所になるというのは公共施設の目的に合致している」と胸を張る。
 こうした地道な取り組みによってフィギュアスケートがなじみ深くなり、地元の選手も少しずつ増えているという。レベルも徐々に上がり、東日本選手権にはテクノルアイスパーク八戸を拠点とする八戸FSC出身の選手がシニアとジュニアで計6人出場した。
 東日本選手権を突破し、全日本ジュニア選手権に2年連続で出場した男子で15歳の堀野伊織もその一人。テレビで見た高橋大輔さんの演技に憧れ、3歳で滑り始めたといい「慣れているというのもあるけど、今までで滑った中で一番滑りやすいリンク。励まし合ったり、教え合ったりとか、いろいろとみんなで協力してここまで来られた」と切磋琢磨できる環境に感謝する。「世界大会とかに行って、いろいろな人に知ってもらえるような選手になりたい」と志も高い。

全国中学校大会男子ショートプログラムで演技する堀野伊織=2025年2月2日、長野市ビッグハット

電気代にはLEDでコストカット 全国的なリンク減少には危機感

 営業期間の延長で気になるのは電気代など維持コストの問題だが、坂頂さんは場内の照明に消費電力が少ないLEDをいち早く取り入れ、リンクの使用用途に応じて明るさを調整している。「必要な時にはちゃんと使うけど、そうでない時はメリハリをつけて。施設が続くために力を合わせて、地元の人に我慢していただく部分もあったり、競技担当者にもお願いしたり。電気の総使用量は9月から(営業を)始めていた時より少ないくらい」と工夫する。
 他にもオフシーズンのメンテナンスで行う壁、天井のペンキの塗り替えや館外の除雪作業を業者に委託せずに社員でこなすなどコストカットに取り組む。「『コストがかかり過ぎるから(運営を)もうやめよう』となったら、選手も子どもたちも不幸。(運営が)続くように、今から考えるのが大人の役割」と責任感をにじませる。
 施設の老朽化や電気代の高騰で全国的にリンクが減少傾向にある中、危機感がある。
 「今の日本で人口が減っていくのはやむを得ない。今みたいに選んでいただける場所にするために合宿や大会というのは、やらなきゃいけないこと。(運営が)続かなくなったら公共施設としても持ち主としても困るでしょう、と。どうやって活用できるか、長く使えるか、それはお互いに考えないといけない」

YSアリーナ八戸

 近年、新設されるリンクでは建設費や維持管理費の削減などの理由で、最小限の観客席しか設置されない場合もある。
 「競技環境を考えても今はテクノルアイスパーク八戸のように観客席があるところはとても貴重。競技団体もコストをかけずに(大会を)開催できる。(大きい会場で)一から氷を張ると数千万円かかるが、それはスター選手がいて成り立つ話。競技団体がここのように観客席のある既存のリンクをもっと大事に長く、そこが稼働して壊されないようにすることも大事なんじゃないかな」
 八戸には2019年に新設されたスピードスケートの国際大会を開催できる屋内の「YSアリーナ八戸」、アイスホッケーで強豪の東北フリーブレイズが拠点とする2020年開業の「フラット八戸」もある。
 「八戸の人は見たいと思えばどこに行っても(氷上競技を)見られる環境になってきている。八戸を選んで来てくれれば僕たちもうれしいし、タクシーもホテルも飲食店も町が恩恵をもらえる。それも公共施設の役割の一つ」と坂頂さん。両施設の整氷業務も担うエスプロモ社が新時代を迎えた「氷都八戸」を支える。

番外編・八戸と羽生結弦さん

テクノルアイスパーク八戸の玄関ホールに展示される羽生結弦さんのスケート靴

 2010年の「プリンスアイスワールド」にジュニア時代の羽生さんが出演したのには裏話があった。坂頂さんによると当時、ゲストスケーターの選定を締め切った後、プリンスホテルの担当者に「仙台のジュニアの子で上手な子を一人追加できないかな」と羽生さんの出演を打診された。
 コスト的には厳しい状況だったが、坂頂さんは「(羽生さんを)知っていますよ、いいですよ」と快諾した。当時を振り返り「なんで赤字を増やすような『いいですよ』という言葉が出たのか分からないけど」と苦笑いを浮かべる。
 このショーをきっかけに羽生さんは憧れていたプルシェンコさんと初めてコミュニケーションを取る機会を持ったという。ショーの合間の休憩時には出演した他のスケーターと一緒にテクノルアイスパーク八戸がある公園で、サッカーで遊ぶこともあったようだ。
 また、2011年3月の東日本大震災の際、仙台市内のリンクで練習中に被災して練習拠点を失った羽生さんは震災後、約1カ月で営業を再開した八戸で練習したこともあった。

慈善アイスショーで演技する羽生結弦=2011年7月27日、青森県八戸市の新井田インドアリンク(現テクノルアイスパーク八戸)

 テクノルアイスパーク八戸の玄関ホールにあるガラスの展示ケースには、羽生さんが2011年四大陸選手権で2位になった際に履いていたスケート靴が公開されている。羽生さんが震災後に避難していた際の練習で履いていた靴でもある。2012年世界選手権で銅メダルを獲得した際のプログラムをテクノルアイスパーク八戸で阿部奈々美コーチと振り付けした縁から飾られている。
 羽生さんはプロ転向後、自身が出演、プロデュースした単独のアイスショー「プロローグ」を2022年12月に「フラット八戸」でも開催した。坂頂さんは羽生さんに招待されて観戦したそうで「八戸で散々ショーをやったけど、席に座って、まるまる見るのは初めてだった」と言う。羽生さんの八戸に対する感謝の気持ちを実感している。

大島 優迪

この記事を書いた人

大島 優迪 (おおしま・まさみち)

2014年入社。大阪でプロ野球阪神、サッカーを担当。19年末に東京運動部に異動し、東京五輪ではスケボー、BMX、3x3などを取材。現在はサッカー、卓球、フィギュアスケートを担当。神奈川県出身。